Wednesday, April 24, 2013
Semester end senryu
but this *sigh* is not of relief--
A stack of blue books
Friday, December 02, 2005
怖かった
月曜日の朝、胸が痛くなって目が覚めた。ウォ~... 何なんだ、と思った。先月、ちょっと手がしびれていた時もあったけど、「まさか」と思ってこの心痛を無視しようとした。学校に行って、授業も教えた。ずっと胸が痛かったけど、朝の鋭い痛みはなかったから、いいかな、と信じ込もうとした。でも、うちに帰って寝ようとしたら、またその鋭い痛みがまた始まった。殆ど眠れなかった。
朝起きたら、むすびちゃんと話したら、「ちゃんとお医者さんに見てもらった方がいいんじゃないの」という結果になって、しぶしぶ病院に行った。
病院で症状を説明してから、EKG(心電図)をやってもらった。その結果を先生が話してくれて、結局は、EKGによると心臓には異状はなさそうだ。
「じゃ、この痛みは?」と、僕が訊ねたら、
「こうみたいですよ」と先生が頬を膨らました。「要するに、大腸にガスが溜まっていて、腸を膨らましてる。異様に膨らむと、それは痛いさ」と。
ホッとすべきか、赤らめるべきか。ハァ~...
その後、CVSに行って、GasXという薬を買って帰った。溜まってるガスを分解してくれるはずで、それから下の方へ光の見えるところまで移動するだろう。ハァ~。
左の漫画を拡大するにはクリック。

Friday, November 11, 2005
懐かしい給食
前回のポストに小学校の給食はあまり美味しくなかったと書いたが、給食の時間は面白くなかったわけじゃない。
うちの学校では、全校の生徒が同じカフェテリアで食事をしていたが、約四百人の生徒たちが一遍に食事の出来るほどの広い場所ではなかった。よって、時間をずらして、学級別に食べていた。幼稚園から三年生まで、十一時半から順番に食べて、十二時からは四年生から八年生までだった。しかし、上のほうは逆順で、四年生の給食は一番最後だった。そのころの僕たちは、カフェテリアの外で列に並んで待ちながら、つまらない話をして時間をつぶしていた。
「夕べのテレビ見た?」
「いや、宿題は終わってなかったから、見れなかった」
「そう?Laugh In は面白かったよ。でも、あのゴルディ・ホーンってホントにばかだよね」
「まぁね、でも可愛くない?」
「うん、うん」
といったような、中身のない会話ばかりだった。この調子で給食の時間を過ごしたが、ある日、くしゃみの事件が起こった。火曜日のスパゲッティの日のことだった。
忘れてもいいくらい普通のトマト味のスパゲッティを食べながら四五人の友達とわいわい話していた時に、僕のそばに座っていた友達がいきなりくしゃみをした。「ブレス・ユー」と僕が言ったら、向い側の友達が急にケラケラと笑い出して、くしゃみをした友達に指を差していたのだ。
「ナヌ?」
と思って隣の友達の顔を見たら、彼の右の鼻孔からスパゲッティの麺一本が垂れていた。そう、友達がちょうどスパゲッティを呑み込もうとしていた時にくしゃみをしてその勢いで鼻から一本出た!
「ギャハハハハハ」と笑いが止まらなかった。今思うと友達は可哀そうだったけど、当時の僕らはそんな同情は出来っこなかった。だって、その友達はその一本のスパゲッティを鼻から取って、また口に入れたのじゃ!
「ギャ~」と、益々お腹を抑えながら笑い続けていた。
ハ~。こんな事件を思い出すと、「給食の時間は楽しかったよね」、とため息を。
Friday, November 04, 2005
給食
僕はメリノールというカトリック教の小学校へ通った。この学校は、日本人のカトリック信者のために創立した教会に所属する学校だったから、そこで幼稚園から小学校八年(日本の中二に当たる)まで勉強した生徒たちは日系人だったのだ。今のアメリカでは、こういう学校は違法で存在しないけど、当時は、60年代のマティン・ルーサー・キングとその人権運動以前の時代であったから、我々に日系人にとっては、こういうようなところはあってしかるべきところだっていた。
しかし、人権や差別問題から守ってくれるような組織にしては、学校給食にはあまり力を入れなかったのだ。ホット・ランチと言って、確かに日本の冷たい弁当や米国の(当時の)粗末なサンドウィッチより栄養バランスはずっとよかったかもしれないけど、我々ガキにとってはあまりおいしくなかった。その日その日のメニューが決まっていて、皆まったく同じものを食べていた。一番記憶に残ってる「定食」はエッグ・フー・ヤングだった。日本の、蟹の入っていない「かに玉」みたいなもので、あんかけは塩っぱかたし、この「かに玉もどき」はたくさん作らなくてはいけなかったから、いつも冷めていた。立派な「ホット・ランチ」だった。半分食わず、先生の見てないときに捨てた時も多々あり。
ハ~。当時の高級料理といえばステーキとポテトだったから、中華もどきはいいほうだったかもしれない。でも、おかげさまで、いい面もあったといえる。我々は現代の肥満問題を避けることができた。
Monday, January 10, 2005
病気アガリ
クリスマス辺り気管支炎になって、全く大変だった。殆ど一週間はドウンだったけど、今やっと元気になった、とは言っても、やはり体調は百パーセントじゃないみたい。スタミナがなくなって、ちょっと買い物行ったら、すぐに疲れる。情けなくて恥ずかしいくらい。ちょっと調べたら、気管支炎から回復するには数週間かかるようだ。
やれやれ。
要するに、やっと治ったところで学校へ戻らなくちゃ。何か、冬休みは台無しだったみたい。あ~ぁ。目茶つまらないんだ。
でも、ある学生のお陰で、新しいミュージック--ま、僕にとって新しいけど--楽しめた。Do As InfinityのDo The Bestを狂ってるかのように毎日何回も聞いてる。
〝We Are〟、〝遠くまで〟、〝深い森〟、〝冒険者たち〟やら最高。何でもっと早く知らなかったかな?
さて、次は誰かな?拓君が教えてくれるかな?へへへへへへ
Wednesday, December 29, 2004
さらば
この一週間は、いつあっても最低な一週間だったけど、ちょうどクリスマスに重なると、耐え難い。
昔、がきの時にロスの日本人町で働いていた和菓子屋の会長さんが他界しました。この会長さん、うちの社長のお母様で、和菓子屋で働いていた人を自分の子供のように大事にしていた。ま、そこで働いてた人たちは、「おばさん」の恩の受け取り方はそれぞれだったけど、僕は感謝していたのだ。
ちょうどそのころ、うちの両親が仲が悪く、「家」 いえ にいても「家うち」の雰囲気は薄かった。そこよりも、和菓子屋の皆さんと、おばさんが作ってくれたご飯がよっぽど美味しかった。そこで毎晩九時まで働いて、終わったらおばさんを連れて帰って、僕は帰ったらもう十時過ぎで、ちょっと勉強して寝れば、自分の「うち」のまずい空気をあまり吸わずに済んだ。
今年の夏、父の葬式に出たときにびっくりしたのは、おばさんが来なかったこと。母の葬式に出てくれたというのに、父の葬式には絶対出ると思ったから、聞いて見たら、「最近調子が悪い」ということだったので、家まで会いに行った。やはり、ちょっと体は弱っていたのだが、ちゃんと話せて、握手して、ギュッと抱きしめることもできた。ささいな話しかしなかった。そしてただの十分か十五分だけだった。でも今思うと、それでもよかった。それが、おばさんとの最後のひと時でした。
さて、こんな僕にとって重大な人物が亡くなったと聞いたら、どうなったと思う?熱を出した。マジで。そしてただの熱じゃねぇべぇ。四十度も出した。結局インフルエンザで、抗生物質呑めば治せた。
が、熱が下がって、頭がちょっと冴えてきて、おばさんのことをどういう風に考えた、どういう風に思い出しても、事実は変わらない。
おばさんがもう帰ってこない。